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【書評】学者の使命・学者の本質

 

学者の使命・学者の本質 (1950年) (岩波文庫)

学者の使命・学者の本質 (1950年) (岩波文庫)

 

 本日の書評はこちら。フィヒテ著『学者の使命・学者の本質』です。

 

総評

大学生へ

 とりあえず、大学生になったときに読めれば・・・

 というのがありきたりですが、この本を読んだ感想です。(というかもっと若いときに読んでいれば・・・系の書評が多すぎてうんざりなことはある)

 twitterでも4月の入学シーズンになると、大学教授が「新入生よ、勉強しよう!」というtweetをしている一方、それに「せっかく大学生という身分なのだからもっと人とは違うことをすべき」という論争が巻き起こったりします。

 

togetter.com

 とりあえず、わたしとしてはtwitterで論争するまでもなく、すでに論考があるのでどうぞこの『学者の使命・学者の本質』を参考にしていただければ・・・と思います。残念ながら、わたしは「せっかく大学生になったのだから、大学生にしかできないことをやるべき」派ではありませんし、今回ご紹介する論考も「大学生よ、勉強しろ」系です。

学者の研究不正などの問題

 学者たるべき者の矜持

 研究不正というものが大々的な問題として注目されはじめてからしばらくです。この本(というか講演)が行われていたのは1794年から1811年のこと、そのときからすでに研究不正の芽はあったということ、そしてフィヒテはカントの『学問芸術論』にある学問批判から

 「じゃあ学者たる者どうあるべきか」

という問題に切り込んでいったのが本書です。

内容

時間があれば追記またはまとめます。(時間がないのでいくつか印象的な節を引用します)

(学生の自由に関して)「汝はただしいことをせず、なちがったことをするならしてもかまはない、さうしたところでせいぜい、汝が侮り軽んぜられ、みづから心のうちを覗き込む時自分自身を軽蔑せねばならなくなるという以上の損害は招かないようにしてやらう。この危険を犯してやらうと思ふならかまはずやれ。」 P.205

まあすべてはこういうことです。自分にとって合目的的であれば、他人からどう言われようがそれをやればよいのです。それについて(法令に違反しない限り、最近では公衆の倫理的感情に反しない限り)なにをやってもよいでしょう。またこんな学生批判もされています。

学校でもぼんやりと無意識の状態で日を送り、みづから好きこのんですることでなければ何もせず、出席してはならないぞといふのが最高善であり唯一の人生の楽しみだと心得ていたその種の生徒がーもう一度言う、その種の生徒が大学での人生の楽しみだの、大学の無拘束だのについてのそういう概念どう理解するかは考えることができる、(普通に学校をなまければそんな機会いくらでもあっただろうし、そもそも大学生活で得られる者を知っている者からすればその行動がなぜ楽しいと思えるのかわたしには一つの謎だ) pp. 362-363

 

現代の学者の批判について

かれらがその研究の方向をさだめる時それは真であるか、よく貴くするものであるかーとは問はず、ー喜んで聞かれるだろうか、と問ひ、この研究で人類は何を得るだろうか、とは問はず、この研究で私は何を得るだろうか、幾らの金銭、どの王子のありがたい御解釈を、或ひはどの美人の微笑を得るだろうかと問ふのを聞いた。 pp. 89-90