【書評】努力論
今回紹介したい本はこちら
真田露伴と言えば『五重塔』などの小説が有名であるが、こちらは評論文となってる。それがなかなか現代にも通ずるものがあると深く感銘を受けたので是非紹介したい。
時代背景
この本の真意は1939年に、岩波文庫にこの書が入ったときそのあとがきに記されている。長い長い一文ですが以下の通り
主意は当時の人々の功を立て行をなさんと欲するあまりに、不如意のこと常に七、八分なる世にありて、徒に自ら悩み苦しみて、朗らかに爽やかなる能わざる多きを悲しみ、心の取り方次第にて、作用に陰惨なる思のみを持たずとも、陽舒の態を有して、のびのびと勢いよく日を送り、楽しく生を遂げ得べきものをと、いささか筆墨を鼓して、苦を転じて楽と為し、勇健の意気を以て懊悩尚早の態度を払拭せんことを勧めたまでであった。(強調はブログ筆者による)
つまりは気の持ちよう次第である。のにもかかわらず、思い通りにいかないからと言って人生を肯定的にとらえないのは損でしょ(どうせこの世の7,8割はうまくいかないことなんだし)といいたい。
その中でどのように心がけるかという点を様々な視点から考察している。殊に努力に関する記述が多かったため『努力論』としたそうだ。
努力は報われるか否か
最近ブログやらネットニュースやらtwitterやらでこの手の話題は事欠かない。思うに断片的な情報の渦を拾い集めても、「あーこういう意見の人もいるんだー」としか思えないので説得力のあるまとまった文章を読んだほうがこういうのは良い。(ネットのほうがいいという意見もあるがそれを否定するつもりはない。一長一短の関係かと)
"努力は報われない"という人たちのことを露伴は、「運命前定説」の虜になっていると批判する。すなわち幸不幸はあらかじめ運命で定まっていると考えがちで、生年月日だの、手相だの、星座だのに縛られるなと強く進めている。
特にこの記述は、なかなか力強く断言していて面白い
成功者は自己の力として運命を解釈し、失敗者は運命の力として自己を解釈して居るのである。
なかなか的を射ているのではないか。
そして努力により自己を革新していくことにより、業をなす機会をつかむのである。ここは「万全を期して天命を待つ」というその一言にすべてが集約されているだろう。
幸福になる(運を寄せる)にはどうすればいいか
このあたりから自己啓発書チックになっていくが、大変至極まっとうなことを書いているように思う。露伴は
- 惜福(福を惜しみ)
- 分福(福を分け与え)
- 植福(福を植える/育てる)
の3点が重要であると説いている。そして歴史上の人物を上げ説得力を増している。(例えば平清盛は惜福の工夫にかけていたから失敗したのだというように)
詳しくはぜひ手に取って読んでみてほしい。ブログでは紙幅の関係上難しい。のでこれまでにしておきたい。
人を批判すると言うこと
この本の本流からは外れるが、現代のtwitterなどのSNSが発達してきた中で、大変興味深い一説があった。少々長いが引用したい。p.115
人の性情も多種である、人の境遇も多様である。その多種の性情が多様の境遇に会うのであるから、人の一時の思想や言説や行為もまた実に千態万状であって、本人といえども予想し逆睹する能わざるものがあるのは、聖賢に非ざるより以上は免れざるところである。
それであるから人の一時の所思や所言や所為を捉えて、その人の全体なるかのごとくに論議し評隲するのは、本よりその当を得たことではない
犯罪は犯罪として裁かねばならないということは言うに及ばずだが、人を批判するときに相手が人間で多種多様であることを忘れがちである。またある特定の集団をまとめてその集団全員が同じことを考え発言し行動しているととらえがちであるように思う。(しかもそれが集団に属する個人の一時の所為などによって。)
ネットの登場によって世界は多種多様な人間が共生できる世界を形成していくのかと思えば、実際は文脈から切り離された一時の所思・所言・所為により多勢の人々の個人的な直感で評価される緊張感のある社会になるとは思いもしていなかった。(なおかつ評価する個人は多種多様であるため・・・)
おそらく露伴は全くと言って意識していなかったのであろうが、この一節は痛く心に響いた。